プロフィール
- 昭和33年12月19日、埼玉県ふじみ野市生まれ、農業、会社役員
- 上福岡三小、上福岡一中、巣鴨高校、法政大学経営学部卒業、明治大学公共政策大学院修了
- ふじみ野市駒林土地区画整理組合理事長、ふじみ野市都市計画審議会委員
ふじみ野市住居表示整備審議会会長、富士見都市計画土地区画整理組合連合会会長
国道254号バイパスふじみ野地区土地区画整理組合準備委員会副会長
JAいるま野総代、ふじみ野市立さぎの森小学校PTA会長などを歴任
市議会議員3期 - 現在、一般社団法人まちづくりネットワーク代表理事、
富士見ライオンズクラブ会員、防災士、土地区画整理士 - 家族は、妻と娘の三人暮らし
- 趣味は、ラグビー観戦、渓流釣り、街の散策、スポーツは、中学高校と野球、柔道初段
- 身長172㎝、体重71㎏、血液型はB型
- 座右の銘は、「一隅を照らす」、政治信条は「利他」
なぜ、政治を?
子供の頃に見ていた父のうしろ姿
私の父は、終戦後の昭和26年から高度経済成長期の昭和42年まで、旧福岡村、旧福岡町の議員をしていました。
昼夜を問わず色々な方が家に訪れ、困りごとなどの相談に乗り、問題事が起これば農作業の手を止めて地下足袋で現場に向かう父の姿を記憶しています。
そんな父のうしろ姿を見て、子どもながらに父の故郷にかける思いの強さを感じていました。
私が大学3年次に父は他界しましたが、第二次大戦に出征した父は戦争の話を一切口にすることはありませんでした。
7年にわたり外地で戦い、スマトラ島での捕虜生活を終えて長崎県の佐世保港に引き揚げてきたことは親戚から聞きました。今思えば、「平和な社会」、「平穏な日常」のありがたさこそ、父の無言のメッセージだったかもしれません。
人とまちづくりの出会い
祖父、祖母、父と5年間で3人が亡くなり、我が家では右も左もわからない私に、一気に世代交代の時が訪れました。それまでアルバイトに明け暮れ、のんびりとした生活でしたが、幾つもの煩わしい問題や残務整理が発生したため就職活動もすることなく大学を卒業、その後、母の手伝いをしながら神田神保町の簿記専門学校に通い税理士試験にチャレンジしました。良き友人にも恵まれ3科目まで合格しましたが結局断念することに。
ちょうどその頃、ふじみ野駅周辺地域のまちづくりが始まり、土地区画整理に関わる方々との出会いもあり、生まれ育った地域がどのように変貌していくか、まちづくりへの関心が高まりました。
富士見市勝瀬原地区の土地区画整理事業でしたが、隣町に住む私にとって富士見市の地域住民や行政職員の方々との出会いは、本気で「まちづくり」を考えるきっかけとなり、また、情報開示と合意形成のプロセスの重要性を学びました。
2つの現場での活動
ふじみ野駅周辺の勝瀬原地区、大井苗間地区、東久保地区の大規模な土地区画整理事業が進捗し、周辺地域が発展していく中、平成12年に地元の駒林土地区画整理事業が産声をあげ、役員として事業に参加しました。
時はバブル経済崩壊後であり、いかに事業をスピーディーに完成させるか、かつ、安全性、快適性、利便性を兼ね備えた健全な市街地を造っていくか大きなテーマでした。土地区画整理は減歩(土地の無償提供)、換地(土地の位置変更)、移転補償と非常にデリケートな事業で交渉は夜遅くまで続くことがよくありました。15年間に及ぶ事業でしたが、地域住民の皆様のご理解とご協力をもとに行政と一体となって都市基盤整備を完了し、おかげさまで駒林土地区画整理事業は平成26年に街づくり区画整理協会より全国会長賞を受賞することができました。まさに「協働のまちづくり」を実践できたと考えています。
また、さぎの森小学校では、PTAや学校応援団活動に参加し、子どもたちの見守り活動を始めることになりました。教育や心理学の専門家でもない私は、子どもたちが安全で楽しい学校生活を送るために何ができるのか自問自答し、今日まで15年間子どもたちへの声かけを続けています。
シンプルな活動ですが、ひとりひとりへの声かけこそが大変重要であることを学びました。
3つの創造へ向けて
地元地域での2つの活動をはじめ、被災地を訪れた時に伺った被災者の声、また、犯罪等に遭われた被害者遺族の訴えなど、肌身で感じたことのすべてが目指すべき3つのまちづくりとなりました。
その3つとは、「安心安全な地域社会」「活力ある地域社会」「温もりある地域社会」の創造です。
東日本大震災以降、毎年のように各地で大規模災害が発生し、強靭な都市基盤整備は待ったなしの状況で、同時にそれは人口減少、少子高齢化社会や環境に配慮し、将来を見据えた都市づくりでなければならないと考えています。また、その実現ためにはハードだけではなく、地域のマンパワーや人の絆を大切にしたソフトが不可欠です。
ことわざに「ローマは一日にして成らず」「千里の道も一歩から」とありますが、まちづくりは決して平坦な道のりではなく、エンドレスかもしれません。それゆえ、私は「生涯まちづくり」をモットーに3つの創造に向けて政治を志しました。微力ながら一歩でも前に進めて行く所存です。